
何度頼んでも、同じことが起きる
「お願いね」と笑って頼んだのに、また忘れられている。
買い物に行ってくれたはずなのに、肝心のものがひとつもない。
伝えた内容とは違うものを手にして帰ってくる夫に、私はどう声をかけていいか分からなくなった。
たとえば、夕飯の材料を頼んでも「え、そんなの聞いてない」と言う。
旅行や病院の予定も、何度も確認したはずなのに当日になると「そんな約束してたっけ?」。
私は思わず呟いた。「どうして、何度言っても伝わらないの?」
最初のうちは、「忙しいから仕方ない」と自分に言い聞かせていた。
けれど同じことが何度も繰り返されるうちに、悲しさと怒りが膨らんでいった。
私は次第に、自分が軽視されているように感じ始めた。
「裏切られた」と感じる瞬間
夫との約束が反故にされるたび、胸の奥がズキンと痛む。
小さな約束でも、そこには「あなたを信じてる」という思いが乗っているからだ。
発達障害の特性を知らなかったころの私は、
「どうしてこんなに無責任なの」「私との約束を軽く見ているの?」と怒鳴ってしまったこともある。
けれど、そのたびに夫は無反応だったり、あっけらかんと「悪気はない」と言う。
その言葉が、さらに私を深く傷つけた。
悪気がないなら、なぜ何度も同じことを繰り返すの?
まるで、何を言っても響かない壁に向かって話しているようだった。
理解してもらいたくて、一生懸命言葉を重ねるのに、会話はどこかですれ違っていく。
やがて私は、彼を信じることが怖くなっていった。
カサンドラ症候群の日常の中で
そんな生活を続けるうちに、私の中で「傷つくのが怖いから期待しない」という感覚が生まれた。
「どうせまた忘れる」「また裏切られる」と先回りして諦めるようになった。
けれど、諦めは心を守るどころか、何も感じないように麻痺させていく。
感情が動かなくなり、笑顔も減っていった。
これが「カサンドラ症候群」の始まりだったのだと、今なら分かる。
発達障害のある夫との関わりの中で、毎日が“裏切られたように感じる”積み重ねだった。
でも、夫の中では「裏切った」という感覚が全くない。
そこに大きな温度差があるのだ。
発達障害の特性と「約束」
発達障害と一言で言っても、その背景にはさまざまな脳の働きの特性がある。
注意欠如・多動症(ADHD)の人は、記憶や時間管理が苦手な傾向がある。
自閉スペクトラム症(ASD)の人は、他人の意図を正確に理解したり、状況に合わせて行動を変えるのが難しい。
夫にとって、約束とは「その瞬間 verbal(言葉)で了承した行為」にすぎない。
つまり、私のように“約束は信頼の証”という感覚では受け取っていないのだ。
さらに、彼の中では「覚えていない=していないこと」として処理されることもある。
だから、後から指摘されても本気で「聞いていない」という反応になる。
それを見た私は、当然「嘘をつかれた」「軽んじられている」と感じる。
だが、彼の言う「聞いていない」は事実であり、わざとではないこともある。
このすれ違いが、夫婦関係に深い亀裂を生む。
約束を守る=信頼を積み上げる行為?
私にとって、約束を守ることは「信頼を築くこと」そのものだった。
言葉にした以上、それを果たそうと努力する。
だから、守られなかったときのショックは大きい。
しかし、発達障害の当事者は「約束=覚えておくべきタスク」という認識が薄い場合がある。
それは、彼らが“優先順位をイメージで整理する力”が弱いためだ。
たとえば、「牛乳を買ってきて」と頼まれたとき、頭の中では「買い物」という行動までは浮かぶが、
「家庭で使うために必要」「夕飯の支度に関わる」といった目的のつながりが薄い。
そのため、「忘れる=問題」と結びつかない。
結果として、「まあいいか」とスルーしてしまうことがある。
まさにここに、気持ちのすれ違いが生まれる。
私にとっては“信頼の証”が、彼にとっては“単なる行動のひとつ”として処理されるからだ。
「何度も言ったのに」は通じない理由
私はいつも、「そんなに何度も言ってるのに!」と声を荒らげていた。
でも、夫から返ってくるのは「言われても忘れちゃうんだよ」という無反応な言葉。
その「忘れちゃう」という一言にどれだけ心が折れたことだろう。
しかし、発達障害の特性のひとつに「ワーキングメモリー(作業記憶)」の弱さがある。
この機能は、情報を一時的に頭の中で保持し、必要な場面で呼び出すために使われる。
この働きが上手くいかないために、「聞いた」「覚えた」「実行」のステップが分断されてしまうのだ。
本人にとっては本当に「覚えていない」のではなく、「意識からこぼれ落ちた」に近い。
だから、同じミスを繰り返す。
これは怠慢ではなく、脳の情報処理の癖によるものだ。
だが、支える側からすれば理解できない。
「努力すればできるはず」と思ってしまう。
この考え方のズレが、カサンドラ症候群の根本的な苦しさでもある。
「悪気がない」が一番苦しい
夫に問い詰めても、「悪気はないんだ」と言われるばかりだった。
確かに、彼に悪意はなかったのだと思う。
けれど、“悪気がないなら、どうして私だけがこんなに傷ついているの?”
その矛盾が、何よりもつらかった。
この「悪気はない」という言葉の裏には、当事者側の“事実としての中立さ”がある。
つまり、「やった・やってない」だけで世界を判断してしまう傾向だ。
私が受け取る“感情の裏切り”という概念が、彼の中にはない。
会話がすれ違うのは、単に言葉の問題ではなく、
相手が「感情をコミュニケーションに含めていない」ことに気づかないからだ。
どんなに丁寧に話しても、意図の中心が共有されない。
それが続くと、パートナーは「自分が透明になっていく」感覚に包まれる。
孤独と虚無感が積もり、やがて心が閉ざされていく。
「また忘れたの?」の裏にある脳の働き
発達障害のある人が約束を守れない背景には、「脳の情報処理の特性」が関係していると言われている。
特に、注意欠如・多動症(ADHD)の特性を持つ人に見られるのが、脳の「ワーキングメモリー(作業記憶)」と呼ばれる機能の弱さだ。
この機能は、短期間だけ情報を保持し、必要なときに呼び出す力を意味する。
たとえば、「夕方、スーパーで牛乳を買ってきてね」とお願いした場合、
健常な脳では「夕方」「スーパー」「牛乳」「買う」という情報を一時的に保持し、
夕方になったときにその情報を思い出す。
ところが、ワーキングメモリーが弱い脳では、この情報のうち一部が抜け落ちる。
「スーパーに行く」までは覚えていても、「牛乳を買う」を思い出せない。
それなのに、「頼まれたことをきちんとやった」という感覚だけが残るので、本人にとっては“忘れた”という事実すら自覚できない。
この段階で支える側は、「信頼を裏切られた」と感じる。
だが、夫にとっては「やるつもりだったけど、気づいたら忘れていた」だけのことなのだ。
それが何度も続くうちに、信頼の亀裂は深まっていく。
予定や約束を「時間」として感じにくい特性
発達障害の人の中には、「時間を体感する力」が弱い人もいる。
心理学では「タイムマネジメント能力の困難」と呼ばれる。
目の前の刺激には強く反応するが、未来の予定や約束を「今の自分」と結びつけて把握するのが難しい。
その結果、「あとで」「次に」「いつか」という概念が曖昧になる。
カレンダーに予定を入れても、自分事としての実感が薄い。
本人に悪気がなくても、時間の流れが頭の中で“つながっていない”のだ。
たとえば、「来週の病院、予約してあるからね」と伝えても、当日になるまで意識に上がってこない。
「聞いていたけど、それが“今日”のことだと思っていなかった」という事態が頻発する。
支える側は「理解力の問題」と捉えがちだが、原因は「時間を認識する感覚のズレ」にある。
これは本人の性格ではなく、脳の構造の違いによって起きている。
感情よりも“事実”で動く思考
カサンドラ状態に苦しむ多くの人が、「なぜ気持ちが伝わらないのか」と悩む。
しかし、発達障害の特性を持つ人の多くは、“感情で行動する”よりも“事実をもとに行動する”傾向が強い。
つまり、こちらが「お願いしたのに守ってくれなかった。悲しい」と感情で伝えても、
相手の脳では“悲しい”よりも“何を頼まれたか”という情報が優先される。
感情の重みが伝わらないので、同じやりとりが繰り返される。
夫にとって“約束を守る”は「問題を解決する一つの行動」であって、そこに「信頼を裏切るかどうか」という感情的意味づけが薄い。
だから、守れなかったとしても「悪いことをした」という意識が曖昧なままになる。
支える側にとって、この感情のズレが最も苦しい部分だ。
私たちは相手との関係を「気持ち」で築こうとするからこそ、「言葉が響かない」ことが深い絶望につながる。
約束を守ってもらうためにできる工夫
相手を「努力不足」と責めても、脳の機能的な差はすぐには埋まらない。
できることは、相手の“認知の方法”に合わせて環境を整えることだ。
以下は私が試して実際に効果を感じた工夫だ。
- 約束は口頭だけでなく、必ず“視覚化”すること。
メモやLINE、カレンダー、ホワイトボードなど、目に見える形で残す。
頭で覚えるのではなく、“目で確認できる環境”を整える。 - 一度に複数の用事を伝えない。
一度にいくつも頼むと情報が混乱しやすい。
頼むときは一つずつ、終わったら次へというステップ式が効果的。 - 時間を具体的に区切る。
「後で」「明日」ではなく、「今日の19時に」「食後に」と具体的なタイミングで伝える。
それに合わせてリマインダーを設定しておくと忘れにくくなる。 - 完璧を求めない。
「やってくれたことを探す」視点で関わる。
できなかったことを見るよりも、“できた部分”を認識することで自分のストレスが減る。
実際、これらの工夫を取り入れてから、夫の行動が劇的に変わったわけではない。
それでも以前より衝突が減り、私自身の心が落ち着いた。
自分を守る距離を作る
それでも、相手の特性に合わせることは容易ではない。
「理解していても辛い」というのが、カサンドラ症候群の現実だ。
相手が悪気なく繰り返すミスに、心が少しずつすり減っていく。
そんなときは「一緒に頑張る関係」ではなく、「共に暮らすけれど、境界を持つ関係」に切り替えることが大切だ。
期待と失望を繰り返す関係では、どちらも壊れてしまう。
私は、あえて一部のタスクを「諦める」ことにした。
たとえば、重要な支払いはすべて自分が担当する。
夫に頼んでもできないことは責めない代わりに、「任せない」という選択をした。
これだけで、日常の衝突が大幅に減った。
「この人にはできないことがある」という現実を受け入れる。
それは冷たい対応ではなく、“現実的に関わるための優しさ”だと今では思っている。
約束を守れない夫を愛してしまった自分へ
正直なところ、「なぜ彼を選んでしまったのだろう」と思う夜もあった。
けれど、それは間違いではなかった。
私が彼に惹かれたのは、彼の中に優しさや誠実さを感じたからだ。
それは、発達障害という特性とは関係のない、彼という人の本質の一部だった。
約束を守れないことと、愛情がないことは違う。
ただ、その愛情を維持するためには、自分の心の余力を確保する必要がある。
限界を超えてまで優しさを注ぐと、優しさそのものが枯渇してしまうからだ。
私は一時的に夫との距離を置くことを選んだ。
一人で過ごす時間を持ち、カウンセリングを受け、自分の気持ちを少しずつ整理した。
離れるという選択は、愛が冷めた証拠ではなく、自分の命を守るための行動だった。
カサンドラ症候群から抜け出すために
カサンドラ症候群を乗り越えるには、「相手の特性を理解すること」と同じくらい、「自分自身を労わること」が欠かせない。
支えるための努力を止められない人ほど、燃え尽きてしまう。
専門家に話を聞く、同じ経験をしている仲間と交流する、自分だけの時間をもつ。
どんな形でもいい。
「私の辛さを分かってもらえる場」を持つことが、心の回復につながっていく。
そして、夫の行動を「怠け」ではなく「特性」と理解した瞬間、私の中の怒りは少しだけ和らいだ。
完璧な関係を目指すよりも、「疲れすぎない距離感」を見つけること。
それが、カサンドラ症候群を長期的に悪化させないための鍵になる。
終わりに
約束を守れない夫を目の前にすると、
「私のことを大切に思ってくれていない」と感じてしまうのは当然の感情だ。
けれど、そこに悪意があるとは限らない。
発達障害のある人にとって、約束を守れないのは“思い出せない・繋がらない”という脳の仕組みの問題であり、愛情の問題ではない。
それを理解したうえで、自分の限界を超えない形で関わること。
相手を完全に変えることはできなくても、あなた自身の心の持ち方と環境を変えることはできる。
その小さな一歩が、孤独に閉じこもってしまった日々を少しずつ明るくしていく。
今日も誰かが、約束を守られなかった悲しみの中で頑張っている。
でも、その努力を続けるあなた自身に、まず「よくやっている」と伝えたい。


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