
「どうして私は、こんなに悩まなければならなかったんだろう」
Oさん(仮名・20代後半)は、取材中、何度もそうつぶやいた。
夫のAさんとは交際を経て結婚して1年。2人は見た目には穏やかで優しい夫婦だ。
しかし、その穏やかさの裏側には、誰にも言えなかった苦しみと葛藤があった。
- 「理想の彼氏」だったはずの人
- 「彼の部屋を見た瞬間、息が止まりました」
- 仕事での異変と「ADHD」という言葉
- 「喧嘩にならない」優しさの裏側
- 「別れるか、受け入れるか」1年の葛藤
- 「彼が発達障害でなければ」
- 結婚の決断
- 結婚して見えた“現実”
- 「同じ家にいても、別の世界で生きているみたい」
- ドアの開けっ放しと、蓄積する「小さな疲れ」
- 「優しさが空回りする」日常
- カサンドラ症候群のはじまり
- 彼を守るはずが、自分を見失う
- 「助けを求めることは悪いことじゃない」
- 「彼を理解する」ことと「無理をしない」こと
- 「愛しているけれど、疲れる」
- 「発達障害でなければ」から「一緒に生きていく」へ
- これからの二人へ
- 終わりに――カサンドラの声を聞く
「理想の彼氏」だったはずの人
OさんがAさんと出会ったのは4年前。友人の紹介だった。
初対面の印象は「とにかく優しい人」。穏やかで人の悪口を言わず、誰に対しても丁寧な言葉遣いだったという。
「当時の私は、仕事も忙しくて、人間関係にも疲れていた時期でした。そんな中でAさんの”穏やかさ”にすごく救われたんです。」
交際を始めて1年。
大きな喧嘩もなく、価値観の違いも特に感じなかった。
Oさんの家族もAさんを気に入り、「優しい人じゃない」「良かったね」と祝福してくれた。
しかし、交際2年目に入り、結婚を意識し始めた頃から、少しずつ違和感が見え始めたという。
「彼の部屋を見た瞬間、息が止まりました」
「最初の1年は外デート中心で、彼の家に行くことってあまりなかったんです。でも、結婚を考え始めてから彼の部屋に行って…正直、息が止まりました。」
部屋には洗濯物が山積み。
机の上にはコンビニ弁当の容器、床にはコードや書類、いつのものか分からないゴミ袋。
まさに“カオス”。
優しく清潔感のある彼の印象とは真逆の光景だった。
「その時、初めて不安になったんです。結婚したら、ここで一緒に生活することになるんだ…って。」
そこから、Oさんの中で“違和感”はゆっくりと形を持ち始めた。
彼のモチベーションの落差、物忘れの多さ、会話のずれ。
それは決して「性格」だけでは説明できない何かだった。
仕事での異変と「ADHD」という言葉
Oさんの不安を決定的にしたのは、Aさんの職場での異動だった。
Aさんは上場企業のエンジニアとして働いていた。
高度なスキルを求められる職場ながら、技術畑ではそれなりに評価されていた。
ところが人事部へ異動になってから、事態は急変する。
「彼の会社は、エンジニアとしての彼を評価していたはずなのに、人事に異動してから、”A君、最近どうした?”ってみんなが言うようになったんです。彼自身も”最近、頭が全然働かない”って言っていました。」
報告書の誤字脱字、提出忘れ、メールの宛先ミス。
「注意すれば誰でも防げる」ようなことを、繰り返す日々。
「彼自身も”やる気はあるんだけど、集中できない”と言っていました。私も最初は”慣れていないだけ”と思ってたんですが、どうも様子が違ったんです。」
Oさんが「ADHD(注意欠如・多動症)」という言葉に出会ったのは、その頃。
ネット検索や書籍で調べるうちに、彼の行動と一致する点がいくつもあった。
- 物の管理が苦手で、無くしても気にしない
- 指摘しても「わかっているけど直せない」と言う
- 興味があることには集中するが、その他は放置
- 一度に複数の情報が入ると混乱してフリーズする
「まさに彼のことだ」とOさんは思った。
「喧嘩にならない」優しさの裏側
「彼と交際していた時、”この人は喧嘩をしない人だ”と思っていました。私が感情的になっても、彼は穏やかに黙って聞いてくれて、優しいなと思っていたんです。」
しかし、発達障害の特性を学ぶ中で、その“優しさ”の意味が変わって見えた。
「喧嘩にならなかったのは、彼が私を”待ってくれていた”のではなく、”処理しきれずにフリーズしていた”からだったんだと後からわかりました。」
Oさんが涙ながらに語る言葉には、愛情と同時に複雑な痛みが滲んでいた。
そう気づいた瞬間から、Oさんの中で「彼を理解していたと思っていた自分」が崩れ始めたという。
「別れるか、受け入れるか」1年の葛藤
Oさんは彼を責めることができなかった。
一緒に過ごした2年には、確かに幸せな思い出があった。
旅行も楽しかったし、誕生日には丁寧にプレゼントを選んでくれる優しさもあった。
「彼のことは本当に好きだったんです。だから、”発達障害があるから”という理由で別れるのは違うと思いました。」
彼の特性を理解したくて、発達障害に関する本を何冊も読んだ。
SNSのコミュニティにも参加し、当事者や支援者の話を聞いた。
「少しずつ見えてきたのは、“治す”ものじゃなく、“向き合う”ものなんだということ。でも、それが本当にできるのか分からなくなる時もありました。」
半年以上、心が毎日のように揺れ動いた。
「このまま結婚して大丈夫なのか」
「私が支えきれないのではないか」
そんな不安が、日を追うごとに積み重なっていった。
「彼が発達障害でなければ」
Oさんは、この時期、何度も“別れ”を考えた。
「彼が発達障害でなければ、心置きなく愛せたのに」
その言葉を口にするたび、自責の念にかられた。
「そんな風に思う自分が一番嫌でした。でも、本音なんです。発達障害が原因で、伝わらない、伝えられないことがあって、そのたびに心が折れそうになって…。普通の恋愛がしたかった、って思ってしまう自分をどう扱えばいいのか、わからなかった。」
それでも、彼を手放せなかった。
「私がこの人を理解しなくてどうする」と、Oさんは自分に言い聞かせた。
その心には、「彼を信じたい」という純粋な想いと、「私がなんとかしなくちゃ」という責任感が混ざり合っていた。
結婚の決断
悩みに悩んだ末、Oさんは結婚を選んだ。
「人は完璧じゃない。発達障害も個性のひとつ」
そう自分に言い聞かせながら、周囲には笑顔を見せた。
しかし心の奥では、まだ迷いが残っていた。
「この選択が正しかったのか」は、今もわからないという。
結婚して見えた“現実”
結婚生活を始めて半年。
Oさんは再び、壁にぶつかることになる。
「一緒に住んでみて、想像以上に”特性”が生活に影響してくることを知りました。」
- ドアは開けっぱなし
- 約束を忘れる
- 指示が入らない
- 忙しいと家事も会話も放棄
表面的には穏やかでも、積み重なる小さな“ズレ”が、少しずつOさんの心を摩耗させていった。
それでもOさんは言う。
「ADHDでも恐らく軽度なんだと思います。調べた限り、もっと大変なケースもある。だから私ができるうちは、我慢しようと思っています。」
けれど、その”我慢”の先がどうなるのかは、誰にもわからない。
「彼が発達障害でなければよかった」と思う気持ちは、まだ胸の奥にある。
それでもOさんは、今日も笑って彼を支える。
「病気じゃなくて、特性として受け止めたい」
そう言いながら、少し疲れた笑顔で言葉を締めくくった。
結婚から1年。
Oさん(仮名)は、夫Aさんとの生活に少しずつ慣れてきた。
表面上は穏やかに見えるものの、心の奥では常に小さな波が立っている。
「大好きな人と暮らしているのに、孤独なんです」
そう言って、Oさんはゆっくりと視線を落とした。
「同じ家にいても、別の世界で生きているみたい」
OさんとAさんの一日は、すれ違いの積み重ねだ。
「朝起きて、夫はすぐ出勤準備を始めます。トーストを焼いても、食べるのを忘れて出て行く。帰ってきても、スマホを見ながらボーッとして、話しかけても”うん”としか返ってこない。」
Aさんは決して意図的に無視しているわけではない。
気づけば時間が経っている、というのが日常になっているのだ。
「私が”今日どうだった?”って聞いても、”うーん、まぁ”で終わり。私が話しかけると、途中で急に話題を変えることもある。それが自然なのだと思っているみたいで…コミュニケーションが全然噛み合わないんです。」
同じ空間にいるのに、心が届かない。
それがOさんにとって、何より苦しい現実だった。
ドアの開けっ放しと、蓄積する「小さな疲れ」
ADHDの特性には、「注意の持続が難しい」「忘れやすい」がある。
Oさんはその“日常の影響力”を軽く見ていたという。
「本当に小さいことなんです。ドアを開けっぱなしとか、使ったコップを流しに置かないとか。最初は”まあいいか”と思えていたんですけど、だんだん蓄積するんですよね。」
指摘しても、次の日にはまた同じ。
お願いしても、どこか上の空。
「どうして直してくれないの?」という問いは、やがて「お願いすること」自体が怖くなるほどだった。
「最初は努力してくれてたんです。でも、続かない。私が『また忘れてるよ』と言うと、彼は傷ついた顔をするんです。私も責めたいわけじゃない。でも、結局、我慢するしかない…そんな日々が続きました。」
「優しさが空回りする」日常
Oさんが口にした言葉が印象的だった。
「彼は優しいんです。でも、その優しさが空回りしてしまうんです。」
Aさんは時々、Oさんのためにサプライズを用意する。
しかし、それが実用的な助けにならないことも多い。
疲れているOさんを思って作った夕食が焦げていたり、予定を忘れて当日になって慌てたり。
悪気はない。むしろ「頑張ろう」としている。その姿が切ない。
「彼の努力は伝わるんです。でも、結果に結びつかない。その繰り返しで、私の中の”ありがとう”の感情が少しずつ薄れていくのを感じる瞬間があります。」
カサンドラ症候群のはじまり
Oさんが「自分が壊れそう」と感じたのは、結婚して半年を過ぎた頃だった。
小さな不満を誰にも話せず、ため込む日々。
「彼は悪くないのに、私ばかりが苦しい」と思うことが増えていった。
夜、Aさんが眠った後、ひとりで泣く。
SNSを見ると、友人たちが投稿する「夫との日常」の写真が目に刺さる。
「どの夫婦にも問題はある」と分かっていながら、自分だけが世界から取り残された気がした。
発達障害のパートナーを支える側に多く見られる“カサンドラ症候群”。
「理解されない」「報われない」「孤独」が重なって、心が悲鳴を上げる。
Oさんも例外ではなかった。
彼を守るはずが、自分を見失う
Oさんは、自分が「支援者」のような立場になっていることに気づいた。
「”支える側”になっていたんです。夫婦なのに、同じ立場じゃなくなってた。」
家事、人間関係、生活の段取り。全部自分がやらなければ回らない。
それを“仕方ない”と受け入れていたが、次第に自分の感情を忘れていった。
「彼に笑顔でいてほしい。だから我慢する。でも、我慢すればするほど、彼からの感謝も共感も返ってこない。『もう私って何なんだろう』って思うようになりました。」
優しさで彼を包み込むほど、自分がすり減っていく。
それが、最も残酷な現実だった。
「助けを求めることは悪いことじゃない」
ある日、Oさんはカサンドラ症候群についてネットで調べ、「あ、私のことだ」と思ったという。
「”パートナーの発達特性に理解を示そうと努力するあまり、自分の心が限界に達してしまう”――まさに私の状態でした。」
そこから、Oさんは行動を変えた。
SNSの匿名コミュニティに登録し、同じ立場の女性たちと交流を始めた。
「それだけで、すごく救われました。『私だけじゃなかったんだ』と分かるだけで、心が少し軽くなったんです。」
また、心理カウンセリングも受け始めた。
「夫を変えることはできないけど、私の気持ちの持ち方は変えられる。
カウンセラーの先生にそう言われた時、ようやく”自分のケア”の重要性に気づきました。」
「彼を理解する」ことと「無理をしない」こと
Oさんが学んだのは、“共感”と“依存”の違いだった。
「前は、彼を理解しようとするあまり、自分を犠牲にしていました。
でも今は、”理解する”ことと”無理をしない”ことは両立できるんだと思っています。」
例えば、彼に頼ることをあきらめない。
できる限り具体的に伝える。
そして、思い通りにならない時は「人に頼ってもいい」と自分に許可を出す。
「私が全部やらなきゃ」という思考を、少しずつ手放す努力を続けている。
「愛しているけれど、疲れる」
Oさんは今も、夫と離婚するつもりはない。
けれど、現実が楽になったわけではないという。
「彼のことは好きです。でも、疲れる。この矛盾に毎日悩んでいます。
“愛している”と”距離を取りたい”が同時にある。きっと多くの人がそうなんだと思います。」
夫から見たOさんは、きっと“頼りになる妻”だろう。
だが、その強さの裏にどれほどの孤独が隠れているか、本人しか知らない。
「発達障害でなければ」から「一緒に生きていく」へ
1年前、Oさんは「彼が発達障害でなければ」と思っていた。
今、その言葉をどう感じるのか聞いてみた。
「今でも、そう思う瞬間はあります。けれど、それだけじゃなくなりました。
彼の特性も含めて”この人”なんだと、少しずつ受け入れられるようになってきた気がします。」
AさんのADHD的な特性は消えない。
でも、そこにあるのは“治すべき欠陥”ではなく、“付き合い方を学ぶ個性”。
そう思えるまでには、無数の涙と時間が必要だった。
これからの二人へ
「これからどうしたいですか?」と聞くと、Oさんは少し考えてから答えた。
「彼の特性に”慣れる”というより、うまく付き合っていきたいです。
たぶん、波はこれからもあります。
でも、私自身が自分を見失わないように生きていきたい。」
心のバランスを取るために、今は趣味を増やした。
カウンセリングにも定期的に通うようにしている。
そして、同じように苦しんでいるパートナーたちにも、こう伝えたいという。
「彼を変えようとするより、まず自分を守ってあげてください。
自分を壊してしまったら、誰も幸せにできませんから。」
終わりに――カサンドラの声を聞く
Oさんの話は、決して特別ではない。
「理解してあげたい」「支えてあげたい」と願う人ほど、孤独に沈んでいく。
それがカサンドラ症候群の怖さだ。
けれど、Oさんのように“苦しみを言葉にする”ことで、少しずつ光が射していく。
「私も同じ」と共感する声が届けば、誰かの救いになる。
発達障害のパートナーと生きることは、簡単ではない。
だがそれは、「不幸」の物語ではなく、「理解しあうための挑戦」でもある。
Oさんは最後に、こんな言葉を残した。
「発達障害の夫を持つことは、想定外のことの連続です。
でも、少しずつ、一緒に乗り越えていけたらいい。
“完璧な支援者”ではなく、ただ一人の”妻”として。」
カサンドラの苦しみは“愛する人を理解したい”という優しさの裏返し。
だからこそ、支える側のあなたにも「支援」と「癒し」が必要です。

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